パチンコ、パチスロ回顧録4
パチンコCR時代突入は私にとって転機でした。
それまで負け負けの連続だったのに一筋の光が。
当時の二回権利のCRデジパチは一回当たりの出玉数は大体2300発くらい。
現在は2000発機といえばMAX機になると思いますが、当時は2.5円交換が主流だったので一回の大当たりで大体五千円〜五千五百円くらいが目安。
10箱積めば五万円、20箱で10万円コース。
そのCR機の中でも私と相性が良かったのはSANKYOの「フィーバーワールド」でした。
確変(2回権利) 7・飛行機・地球
通常絵柄(単発)ひまわり・パンジー・バラ・チューリップ・ユリ・ハイビスカス
二回権利のCR機というのは3段階の設定があり、機種により違いましたが、おおよそは
設定1が380分の1
設定2が400分の1
設定3が420分の1
くらいだったでしょうか。
このSANKYOの「フィーバーワールド」は通常はたいして面白い展開があるわけではないのですが、
とにかくリーチアクションが好きでした。
9マス絵柄が止まる(フィーバーパワフルのような)なかで、左右が最初に止まって
リーチになると真ん中の列がゆっくりスクロールするのですが、当時他の機種は
大当たりの際はビタどまりだったのに対し、フィーバーワールドはひとつ上で一端止まり、
「チッ外れか、、、」
と思っていたら、『ズルッ』と大当たり絵柄が1コマずれて当たるといった演出や、
1コマ通り過ぎた後に戻るという演出もあり、さらにはシングルリーチとダブルラインのダブルリーチがあり、
7・飛行機・地球といった確率変動絵柄でリーチになった日にはそれはもう脳汁溢れまくりの状態。
1コマ通り過ぎて戻るリーチは液晶のアクションが若干不自然だったので、『あっ!戻るやつだ』というのが
判るアクションでした。でもそれってがっかりなことではなく『不自然なアクションを経由して当たる』ので
ほんの0.何秒かの誤差がたまらなく狂喜に導いてくれる台でした。
とにかく長時間打っていれば収支はプラスというわかりやすい機種でした。
この頃ある程度プロ意識を持っていたので、自分の中でルールを決めて、それを徹底することにしていました。
パチンコ雑誌などでもよく言われていることですが、
①客づきの良い店を選ぶ。
客づきが悪い店はやはり負けることが多く、客が一番それを体感している。
結局自分は近所のホールに入り浸りで、会社が休みの土日は開店前から並んでました。ちゃんと行列ができる優良店でしたよ。
②平日は絶対に行かない。
このブログのテーマに反しますが当時はそれを徹底することで月あたりトータル収支は常にプラスでした。
③違う機種は打たない。
ひたすらフィーバーワールドばっかりやっていました。同じ機種ばかりやると、なんとなくその機種のクセを掴んでいた感じがします。
④投資は上限四万円まで。
四万円まで打っていれば大体一回は何かしら当たるもんです。そこまでやってダメなら帰って他のことをやる。とはいえアツクなって七万くらいまで突っ込んだこともありましたけど。
⑤パチスロはやらない。
やはりトータル収支で負けていたので当分パチスロは止めようと。これも徹底していました。
⑥辞め時をあやまるな。
これって難しいですが、「これ以上出てればやめる」とか、「ひと箱だけ突っ込んだらやめる」とかルールを決めたほうが良いです。
⑦ハイエナされる事を恐れるな。
ハイエナされて出されたら確かに悔しいですが、「自分は運が悪く当たらなかったけどハイエナさんは運が良かっただけのこと」と割り切るようにしていました。ハイエナされたくないからといって無理に突っ込んだところでいい思いはそうそうないもんですよ。
⑧一台座ったらできるだけ移動するな。
コロコロ台を変えるオバチャンを見ていて、それで負けるんなら台変えない方が良いのでは?と思っていました。不思議と出るもんです。
これらのルールを徹底的に守った結果、フィーバーワールドの年間収支はおよそプラス100万は行っていたと思います。
収支が少ないように感じますが、土日しか打っていなかったため、平日もきっちり朝から打っていればもっと儲かっていたと思います。
本当に会社辞めて毎日打ってたいと思っていた時期です。土日の出勤を頼まれると『売り上げに響く』と感じていました。
それを続けて現在も収支プラス街道まっしぐらか?というと、恐ろしい時代に突入したのです。
回顧録5に続く